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カンディード / どんなに不幸な出来事が起こっても、すべては最善だといえるのか?

カンディードはとても純粋な若者であった。
彼はある男爵の屋敷に住んでおり、そこで世界の大哲学者の先生から教育を教わっていた。
カンディードは「世界の出来事は全て最善になるようになっている」と教えられていた。
しかし若者は、ある出来事によって城を追い出されることになり、世界を放浪することによって、うんざりするほどの不幸な出来事に遭遇し、かずかずの困難と理不尽と嫌な思いを経験することによって、こんなに不幸なことばっかり起こるのに、それが最善だなんていわれても困る。
というかそんな考えに執着することもできないし、支持することなんてもっとできない、と最善説に疑問を持つようになる。

カンディードは、姫様とキスをしたところを男爵にみつかり、尻を蹴られてお城を追い出されてしまった。
純粋で世間の厳しさや理不尽を知らない青年は、放浪の旅の中でうまいこと口車に乗せられたり、
兵隊に徴集され戦地に派遣されたり、
大地震の被害を食い止めるために生贄に捧げられそうになったり、
奴隷として虐げられているかつての姫様を守るために人を殺したり、
持っている財産に目をつけられ、騙されて財産をだまし取られたり、
薄情な人間に罠にかけられて牢屋に入れられそうになったりと、それはもう散々な目に遇うことになる。
もちろん旅の途中では不幸なことばかりではなく、忠実な従者と出会ったり、誤解を解いて自由の身になったり、エルドラドという伝説の財宝が埋もれた国に立ち寄ったり、愛しの姫様と再会したりと、いいことも同時に起こる。
その出来事があったからこそ、そうなる運命だったのだ、というように、物事は鎖のようにつがっていく。
どんなに不幸なことが起こっても、それはその時の最善であって、そうなるべくしてなったのだ、と簡単にいえるほど、青年に起こる出来事は、生易しいものとはいえない。

この小説はとんでもない不幸の連鎖がつながっていく。
出てくる登場人物は、みんなが不幸な出来事を抱えていて、まさに不幸自慢を集めたような内容になっている。
だからこそなのか、読んでいる側が嫌な気分にならないように、楽しんで読めるような文体になっている。
カンディードは純真だからこそ能天気で楽天的な感じだし、物語は簡潔で、必要な表現だけにとどめ、矢のようにテンポよく進む。
コントのような会話や雰囲気を醸し出しているものの、人々の境遇はもうほんとうに最悪なものに満ちている。
よっぽど運に恵まれていないんだなと思わせるが、だからこそ「最善説」に対する批判がにじみ出ている。

そもそも「最善説」とはなんなのか。
「予定調和説」ともいえるこの考え方は、すべての出来事はなるべくして起こっている、というような、全ては偶然ではなく必然だ、という考え方なのだ。
18世紀のフランスでは、啓蒙主義によって、「最善説」がとりだたされるようになる。
たとえどんなに理不尽なことが起こり、運に見放され、死にたくなるような出来事が起こったとしても、それはそういう風になる定めだったのだ。
人間にはどうすることもできない、だから受け入れるしかない。
個人的には悪なことでも、世界秩序から見れば善なのだ、という主張を最善説は説いている。
たとえそれが正しいことであったとしても、人間個人からすれば「はい、そうですね」と、簡単に納得して済ませられるものではない。

人はどんな人でも不幸を抱えているし、不幸を感じている。
はたから見ればどんなに幸せそうに見える人たちでも、心の中では不満が渦巻いている。
そして誰もが、自分が一番不幸な人間だと感じている。
中には想像するのも難しいような、聞くにもおぞましいような不幸を経験した人もいるだろう。
そんな人たちに向かって、それが「最善なのだ」と、果たしていうことができるだろうか?
どんなに不幸なことが自分の身に降りかかったとして、絶望の淵に立たされた時に、これが「最善なのだ」と、納得することができるだろうか?
幸も不幸もそうなることは必然だったといわれれば、やるせない気持ちにならないだろうか?
どんなに不幸な出来事に振り回されてもなお、「仕方がない、そういう風になる運命だったのだ」と慰めてやることで救われるのだろうか。
こんなにもたくさん不幸を抱えた人がいるこの世界で、本当にそんなことがいえるだろうか?
とこの本では問うていると感じられる。

この小説はすごく面白いけれど、すごく深いことを考えさせる。
すべては必然なのか? すべては神の計画なのか?
それとも偶然の出来事が連続して、不幸の連鎖につながったのか?
それとも己の未熟さが招いた自業自得なのか?
考えることは尽きない。

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