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たゆたえども沈まず / パリに次代の芸術を花開かせた日本人たちと、ゴッホ兄弟の親交

林忠正は、自分のやりたいことのために、自分の憧れるパリのために、当時の常識に染まることなく、自分の望みを優先してパリへと飛んだ。
ぼくはそんな生き方がカッコいいと思うし、羨ましいとも思う。

当時の日本は鎖国から開国へと大きな時代の変革期で、外国との交流を図るべく、開成学校で外国語を教えていた。
これから必要になるものは英語であり、フランス語などその他の言語を勉強するのは変わり者だとされていた。
成績優秀な学生は留学するチャンスに恵まれ、留学先もアメリカやイギリスが主な渡航先だった。
林忠政はフランスに渡ることを望んでいたが、開成学校はフランスへの留学を打ち切り、彼の望みは絶たれようとしていた。

ちょうどその頃、半月後にフランスで万博が開催されることを知った林は、学校の卒業を待たずに、単身フランスへ渡ることを決意する。
当時、学校を卒業することは将来のキャリアへの足掛かりだった。
しかし林は学校を卒業するためにフランス語を勉強しているのではなく、フランスに渡り、本場でフランス語を喋り、フランスで生活することを望んでいた。
このまま学校にいてもフランスに留学することはできない。
しかし、万博に出展する日本企業に雇ってもらうことで、その夢が叶うのであれば、林は迷うことなく学校を辞し、憧れの地フランスのパリに渡る方を選んだ。

19世紀後半、産業と文化が成熟したパリは、新しいものに飢えていた。
絵画の世界では由緒ただしき歴史画や宗教画、論理にもとづいた完璧な構図と、筆跡を残さない見事な技術で描かれた絵画が、貴族階級のブルジョワジーの目を愉しませていた。
そこに、遠い東の国からやってきて、突如として現れた日本の浮世絵。
大胆な構図と、今まで見たことのない種類の表現にパリの人は心を奪われた。
日本で浮世絵といえばそこら中にある当たり前のもので、茶碗などを包む紙にも使用されていたほど、当たり前のものだった。
それが全く違う国や文化、見る人が変われば価値が変わるように、芸術に貪欲なパリの画家たちを虜にし、新進の画家たちにインスピレーションを与えるものへ昇華した。
「ジャポニズム」といわれるこの流暢は、新しい芸術の時代の幕開けともなる。

パリに渡った林は、このジャポニズムに商機を見出し、日本から浮世絵や陶器などを輸入・販売する会社を興し、パリの人たちに浮世絵を広めていく。
彼と同じように、文学からフランスに興味を持ち、憧れを抱いていた重吉をパリへと呼び寄せ、一緒にビジネスを運営していくこととなる。
外国人がパリで受け入れられるには、相当の苦労が伴ったはずだ。
日本人は西洋人と違い、顔や肌の色や体型が全く違う。
帽子やフロックコートでパリ人のように着飾ったとしても、見た目の差を埋めることはできない。
重吉はパリに来て、その現実を味わった。

しかしパリで生き、生活し、ビジネスを発展させていくには、彼らと対等にやり合わなければならない。
隙を見せることなく、バカにされることのないように、同じ土俵に立ってやろうという気概を見せることが必要なのだ。
日本人であるということは恥ではなく、武器になる。
日本人だからこそ、日本の芸術を一番に知り尽くし、扱う義務がある。
流行に乗るだけの外国人とは違うのだ、という揺るぎなき信念が、林の言動から滲み出ている。
パリに行きたい、パリで生活したいという夢を実現することができた。
そして商機を見いだし、パリの芸術の世界に一石を投じたい、という新たな欲望を掻き立てた。
自分のやりたいこと、なすべきことをやるために行動に移したからこそ、多くの出会いやチャンスにめぐり合うことができたのだ。
他の人が無謀だと思えるような突飛な行動でも、自分に忠実だったからこそ、夢を叶えることができたのだ。

林の行動力のおかげで、重吉は念願のパリに渡ることができた。
彼もまた、周りが英語を勉強してる中で、自分の好奇心に忠実だったおかげで、林と知り合うことができ、パリへの切符を手にすることができた。
そんな重吉は、林に連れられたあるサロンで、オランダ人の画商テオと出会う。
テオは、正統派の絵画を扱う画商で働いていた。
この画商の会社は正統派の絵画だけを取り扱い、貴族のブルジョワジーに販売していた。
最近ではじめた画法の絵は見向きもせず、「落書き」として見下し、あんなものは絵画でもなんでもないと認めていなかった。
テオは立場上口にこそ出していなかったが、最近ではじめた「印象派」と呼ばれる作品たちに、新たな芸術の芽吹きを感じとっていた。
日本の浮世絵からインスピレーションを受けた次代の画家たちが、今までにない構図、筆使い、モチーフで、自分たちが生活する目の前の景色を、自分が感じる「印象」のままに表現する。
今までにない「生」を感じられる絵画にテオは魅了され、正統派の絵画よりも、次代の絵画を取り扱いたいと胸の内でくすぶっていた。

テオには年上の兄がおり、名をフィンセントという。
この兄はその後「ゴッホ」として、有名な画家の一人として評されることになる。
フィンセントは定職にもつかず、浮浪の身としてフランンスの各地を転々としていた。
テオはそんな兄を見捨てることができす、金銭的な援助をしていた。
何か打ち込めることを見つけてほしいと思っており、兄が絵を描き始めるようになってからは、兄の絵が人目につく機会を推し量っていた。
しかしテオは、兄の絵に自信が持てず、終始苦悩を抱えることになる。
フィンセントは林と重吉が勤める画商で、日本の浮世絵に魅了され、日本への憧れを強くし、自分なりの日本の風景を求めては、絵に収めていた。

テオは兄の絵を販売したかった。
しかし、今の画廊では、「印象派」どころか兄の絵を展示することなど到底できない。
だからといって独立し、自分の気にいる新進の画家たちの絵を展示する画廊を持つことはできない。
彼は兄の代わりに家長としての務めを果たさなければならず、兄に金銭的な支援も続けなければならない。
安定した生活を放り投げられるほど、彼には自由がなかった。
しかし、彼は諦めることなく、機会を見計らい、画廊に印象派の展示スペースを広げていくことで、いつか兄の絵を展示できることを夢見ていた。
大胆な行動に出ることはなかったものの、やりたいことを彼なりに実現しようともがいているように見えた。

日本の浮世絵をパリに知らしめ、新進の画家たちに影響を与え、新たな芸術の文化を花開かせるきっかけを作った日本人、林忠正。
彼らが持ち込んだ浮世絵に触発され、絵の道を極めることを選んだフィンセント。
そんな兄を支え、兄の絵を世に出したくても時代が彼に追いつかず、世間に認めさせる自信のないテオ。
彼らの心情を推し量りつつ、隣に寄り添うように暖かく見守る重吉。
同じ芸術の道を歩むことで知り合った日本人とオランダ人の親交を、歴史的事実を含みながら展開されていく。

やりたいことをやろうと決意したからこそ、物語は動き出した。
それぞれの思いを胸に、新時代の変わり目を目前に控えて、芸術に携わるものたちの、国を超えた友情の物語。
時には氾濫するセーヌ川のように、苦境に立たされることもある。
しかし夢を愛し、流れに身を任せ、嵐が過ぎ去るのを待てば、また一歩、前進することができる。
「たゆたえども沈まず」
浸水に負けることなく浮かぶシテ島のように、どんな時もお互いを想い支え合ったゴッホ兄弟の愛は、いつまでも沈むことなく、人々の記憶に残り続けるのだろう。

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